ここに香取神社を奉斎したのは将軍吉宗の頃です。

享保年代(1716~)の頃ですが、当時の状況は不詳です。

天明8年(1788)の「我孫子村村差出明細帳」及び文化6年(1809)の同村「村方明細書上帳」には、当村の「鎮守七ヶ所」とあって、当社はその中の一社であったと考えられています。

それが天保9年(1838)の「村差出書上帳」には「当村鎮守、香取大明神壱ヶ所」と記されていて、従来の各所鎮守七カ所のうちで、当社が全村の鎮守となったことが分ります。旧社殿は、文政10年(1827)の我孫子宿の大火で類焼、天保年代に復興しました。この時、天子山旧在の天子社他四社を合祀、氏子の組織も拡大強化されるに至ったと考えられます。

明治の「神社明細帳」には「我孫子宿字宮脇、村社香取神社」と記され、「社殿間口壱間 奥行壱間三尺 拝殿間口四間三尺 奥行四間」とありますが、ここに「社殿」とあるのは天保年代に復興した一間社流造の本殿のことで、今は神社殿の内部に旧来の姿のまま納められています。

明治36年7月21日の夜のこと。当社で火災があり、拝殿が焼失しました。

そこで拝殿の再建が企てられたが、時あたかも明治38年の合祀令があったので、明治40年に三宝荒神以下十三社を当社に合併することとなり、41年に「拝殿間口参間壱尺 奥行弐間半」が再建され、その後方に旧来の流造本殿を拝するという社殿構成となりました。そしてこの時、天保年代造立の石造明神鳥居の柱に「明治四拾年五月拾八日合併、天子社、三宝荒神、稲荷神社、天神社、第六天社、北星社、同陸神、神明社、鷲神社、住吉社、厳島神社、白山神社」と合祀した十二社の名が追刻されました。

境内の同陸神の社殿は、この合祀にあたって旧在地から移されてきたもので、寛政7年(1795)の石祠が納められています。社殿は明治18年に造立された木造の流造社殿で、石の基壇に「女人講中」「増尾村大工、山ノ辺熊造」「布佐駅、石工繁吉」とあります。現社殿は、権現造、銅板葺、鉄筋コンクリートの新建築で、昭和56年に造営費7,575万円をもって新築されました。

拝殿は、切妻造、向拝付で、正面540cm、側450cm、渡殿は拝殿より一段高くなり、本殿部分は流造で棟に千木と勝男木を置きます。その部分は、天保年代に再建された旧来の本殿をそのまま納めるように、棟の高い建物に造られています。境内地は、もと手賀沼に臨む台地の端で、今も鳥居の前の道は窪地に下る急坂となっています。境内のケヤキの大木は、大正12年に苗木を50本植栽したのが成育したものです。     「我孫子市史」より

 

※ 現在、御神木(樹齢約100年)と合わせケヤキの10本、椎木2本、

染井吉野5本、大島桜1本、真鶴桜1本、参道脇の斜面にツツジが咲き、古い椿が数本あります。

​香取神社

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